“家族の介護”
それは言葉だけでは語りつくせない苦労と苦悩が、介護者にのしかかります。
自分も人間、一緒に介護する家族も人間、介護される方も人間…
それぞれ価値観は違いますから、何をするにしてもスムーズには進みません。また病院や施設の対応に傷つくこともあります。
私は子供の頃から、酒を飲んで暴力を振ったり大声を上げたり物を壊したりする父が大嫌いでした。でも父は精神的に弱かったと思うし、病んでいたからだと思います。
私が幼い頃、ブレーカーを落として真っ暗な中で、父が台所の床にマヨネーズを塗って食パンを敷き詰めていたことがありました。幼い私は、父のそうした奇行を度々目にし、その度に父に近寄りがたさを感じていました。
どうしたらお父さんは治るの?
私は何もできないの?
私がいなきゃいいのかな?
私は生まれてこなければよかった?
私は幼いながらに、父の苦悩を感じ取って自分の無力さを嘆いていました。だから本当のことを言えば、お父さんが嫌いだったのではなくて、役立たずの自分が一番嫌だったのかもしれません。
父が脳卒中で痴呆になり、いらないプライドが無くなり、素直に辛さを私に伝えてくれるようになると、私はもう以前のように父を恨む気持ちが無くなっていました。脳卒中で身体が不自由になった父と、一緒に歩く練習をし、話す練習をし、食事を介助し、そんな中で私は、父とのわだかまりが解けていくのが分かりました。
(※父は7年間の闘病生活の末、2011年に亡くなりました。晩年は誤嚥性肺炎をくり返していたため、死期が迫っていると感じていました。亡くなる3日前に見舞いに行くと、肺炎で呼吸がままならない中、私の腕をつかみ、引き寄せ「お前、可愛いな」とだけ言いました。父は自分の不自由さを投げ出すことなく、最期まで生き抜く姿を私に遺してくれました)
でも私は一つ後悔があります。
私は積極的に父の看病や介護に携わり、父との関係が修復できたけれど、妹は違いました。私と妹には、介護に対する温度差がありました。
妹は私と父が介護の中で和やかになればなるほど恨めしそうに私たちを見ていました。
でも私は妹を置き去りにしたまま、自分の気持ちだけで動いていました。
父は脳卒中で始めに搬送された病院からしばらくすると、リハビリ専門の病院に移りました。その後、自宅介護か老人保健施設に入所するか、という選択になって、私は自宅介護を望んだけど、母と妹は自宅介護を望まず、父は施設に入所することが決まりました。父が倒れてから一年近くが経とうとしていました。
私は父が倒れる前の元の生活に戻りました。また実家を出て自分のアパートに戻り、休職していた仕事も再開しました。
だけどその後、過呼吸になって電車に乗れなくなってしまったのです。だから仕事に行くのも一苦労。通勤時は満員電車のため、何度も途中下車して休まなければいけなくなってしまいました。
そのうちにすぐに全く外に出られなくなり、太陽の光の刺激でも気分が悪くなるようになり、カーテンを開けられなくもなりました。また音にも過敏になってしまい、常に頭の中がうるさくて仕方ないのです。
外出ができず、近くのスーパーで菓子パンだけ買って引きこもる生活になっていきました。不眠も続くようになり、辛くて、近くの心療内科を受診すると、パニック障害と重度のうつ病だと診断されました。
始めは3種類位の薬を処方されました。ハルシオンとワイパックスとパキシルだったと記憶しています。
私の住んでいた部屋は西日が良く当たって、夕方になるとカーテンの隙間から夕陽が差し込んできました。その時間になると私の憂鬱はピークに達して、死にたい欲求でいっぱいになります。
生きるのが辛いから…というより、今自分が生きていること自体、死ぬことよりもみっともない気がしてたまりませんでした。もちろん仕事に行けないために、貯金は底を尽き、経済的にもかなり苦しい状態でした。
夕方になると頭の中で声がして
“死んだ方がいいよ”
と言われます。それが耐えられなくて、私はオーバードーズ(過量服薬)をして、声を聴かずに熟睡しようとする…
なんでこんな風に自分がなってしまったのか、その時は全然分からなかった…理由なんて何もなくて、私は単に神様に嫌われているからだと思っていました。
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