人生どん底の日々①


10代から始まった私たち姉妹の摂取障害と自傷行為は、20歳を過ぎても一進一退の状態でした。少し善くなったり、また悪化してみたり、または過食は改善してきたけれど今度は他のものに依存したり…私たち姉妹は一緒に暮らしていなかったけれど、同じように心がいつまでも晴れずにいながら、何とかバランスを取りながら生きていました。

 

そのような日々が一変する出来事が起こりました。

 

私が24歳になる年、アル中で家庭内暴力がひどかった父が突然脳内出血で倒れたのです。ちょうど仕事のお昼休み中に妹から携帯電話に連絡がきました。

 

「お父さん、脳内出血で倒れた!…多分死んじゃう…!!!」

 

妹の声は静かだったけど、震えているのが分かりました。私はすぐに仕事を早退して、父が搬送された大学病院に向かいました。職場から病院まで電車とタクシーを使って二時間…ずっと祈っていました。

 

 「お父さん、まだ死なないで」

 

私が病院に着くと、父は集中治療室にいて、母と妹が父の傍で固まっていました。父に会うのは久しぶりだった。会わないうちに身体は痩せ細っていて、顔と頭は脳内出血のせいで誰だか分からないほど腫れていました。父は倒れる少し前から頭痛がひどくて食事をしていなかったそう。

 

父は若い頃から大酒飲みでヘビースモーカー、短気で高血圧。目はいつも澱んでいて、見るからに不健康そうでした。その時の医師の説明だと、父は少し前からいくつか脳梗塞を起こしていたようで

 

「以前から脳梗塞を何回かしていますね。今回は大きな出血ですから、いつ容態が急変してもおかしくありません。覚悟して下さい」

と言われた。

 

私は仕事を午前中のみの勤務にしてもらって、自宅から父の病院に通うことにしました。父は一命は取り留めたものの、医師の言った通り、右半身の麻痺、言語障害、記憶障害など重度の後遺症が残りました。

 

搬送されて、翌日の昼に父の意識が戻りましたが、目の焦点は合わず、まっすぐ前を見たまま、動く左手でせわしなく自分の身体を触り、興奮して唸っているような状態でした。

 

「まだ自分の状況を飲みこめていなくて、パニックになっているようです。興奮状態が続いています」

 

医師は、父を見ながら言いました。


意識が戻ってから、どんどんリハビリが進み、私たちを苦しめてきた父親だったけれど、母も私も妹も必死に看病しました。私はそんなに長い時間父と過ごしたことはなかったし、家族が揃うのは本当に久しぶりのことでした。(父の看病と介護の話はまたいつか別に書けたらいいなと思っています)

 

 

 

看病、介護というのは本当に孤独で心身に負担がかかるものです。経験のある人ならきっと分かると思います…

 

人間の心は家族と言えども、自分の思い通りにはいきません。介護は子育てと違って、先が見えないし、希望も持ちにくいものです。家族間で介護の方針が異なってケンカになることもあります。だから介護する人には、絶対自分一人で背負いこまず、できるだけ公的な機関にお世話になったり、介護者の息抜きも意識的にしてほしいと思います。

 

 

話しは逸れましたが、私たち家族も初めての看病、介護で肉体的にも精神的にも経済的にもかなり追い詰められていきました。

 

父は動かない身体に苛々して大声で暴言を吐いたり、私たち家族や看護師さんに暴力を振ったり、ベッドから脱出しようとして何度も落ちたり、隣のベッドのおっちゃんにケンカを売ったり…すごく暴れん坊なのは倒れる前と変わりませんでした。

 

だけど、介護してすごく良かったのは、分かりあえずに離ればなれになっていた父と介護を通して向き合えたこと。お互いの本心を分かり合えたこと。

 

父が本当はどの位家族を愛していたか、

また愛していたのに、自分をコントロールできなくてお酒に逃げて家族を傷つけてきたこと、そのことへの罪悪感、後悔、それがとてもよく分かりました。

 

脳内出血の後遺症で痴呆になってしまった父は、とても素直に自分の気持ちを話してくれるようになりました。


それまで聞いたことのなかった

“ありがとう”
“ごめん”

もちゃんと言ってくれるようになりました。

 

 

そうやって良かったこともこうしてたくさんあったけれど…

 

特に私の場合、若かったから視野が狭いし、周りに介護で分かり合えて、励まし合える友達もいなかったから、正直すごく介護の毎日は辛かった…

 

もちろん妹にとってもそうだったと思います。

 

父が倒れてから一年位が過ぎた頃くらい、私たちは疲労の限界…

 

妹の自傷行為とうつ病は酷くなって、私も重度のパニック障害になってしまいました。

 

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